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受難週の黙想2024

​3月25日(月)

【マタイの福音書 21章 9節】
群衆は、イエスの前を行く者たちも後に続く者たちも、こう言って叫んだ。
「ホサナ、ダビデの子に。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。ホサナ、いと高き所に。」

【解説】
主イエスがエルサレムに入ったとき、人々は熱狂的に出迎えました。
人々は主イエスこそ、自分たちを救ってくれる「新しい王」だと期待していました。

【問い】
①自分の人生に主イエスを迎えた時の事を思い起こしましょう。
②あなたは主イエスに対して、どのような期待を持っていますか?
(主イエスを、どのような存在として理解していますか?)

【祈り】
私の人生に入ってきて来てくださる主を感謝します。
私の人生全体において、主イエスの存在と働きが確かなものとなりますように。




​3月26日(火)

【マタイの福音書 21章12~13節】
イエスは宮に入って、その中で売り買いしている者たちをみな追い出し、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。
そして彼らに言われた。
「『わたしの家は祈りの家を呼ばれる』と書いてある。それなのに、おまえたちはそれを『強盗の巣』にしている。」

【解説】
エルサレムに入った主イエスは、宮(神殿の庭)で不正な商売をしていた者たちを神殿の外に追い出しました。
主は、聖霊の宮である私たち、および主の家とも呼ばれる教会(それもまた、私たちひとりひとり)をとても大切にされ、
きよめるために働かれます。


【問い】
①自分にはどうしようもできず、主に解決していただきたい課題はありますか。
②「わたしの家は祈りの家」という御言葉に目を留め、その意味について祈りつつ思いめぐらしましょう。
(参考:イザヤ書56章4~8節)

【祈り】
私をきよめてくださる主を感謝します。
私自身も、そして私たちの教会も、祈りの家として建て上げられますように。




3月27日(水)

【ヨハネの福音書 13章1, 4, 5節】
過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。
そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。
……イエスは夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
それから、たらいに水を入れて、弟子たちの足を洗い、腰にまとっていた手ぬぐいでふき始められた。

【解説】
「足を洗う」のは、家のしもべが主人や客に行う仕事です。
主イエスはへりくだり、しもべのようになって弟子たちの足を洗うことにより、彼らを愛されました。
そこには、主を裏切ることになるイスカリオテのユダも含まれています。

【問い】
①「足を洗う」とは、「汚れを落とす」ことと、「一日の働きをねぎらう」という二つの役割があると思います。
「主イエスは私の足を洗ってくださる」ことについて考えましょう。
(主は直接、私たちに触れることができます。かつ、しばしば具体的な人を用いて、私たちの足を洗います)。
②あなたが今、「手ぬぐいとたらいの水」を持っていたとしたら、誰の足を洗いますか?
その人の事が頭に浮かんできたのはなぜか、考えてみましょう。
(少なくともひとり。できれば3人くらい、探してみましょう)

【祈り】
私の足を洗ってくださる主を感謝します。
主に用いられて、私の足を洗ってくれた人たちにも感謝します。
私も隣人の足を洗う者として、歩むことができますように。




3月28日(木)

【ヨハネの福音書 13章21節, 25〜27節】
イエスは、これらのことを話されたとき、心が騒いだ。そして証しされた。
「まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたのうちの一人が、わたしを裏切ります。」
…イエスは答えられた。「わたしがパン切れを浸して与える者が、その人です。」
それからイエスはパン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダに与えられた。
ユダがパン切れを受け取ると、そのとき、サタンが彼に入った。
すると、イエスは彼に言われた。「あなたがしようとしていることを、すぐしなさい。」

【解説】
主イエスにとって、「人を愛さない」のは不可能です。
イエスは、自分を裏切ることになるイスカリオテのユダをも愛していました。
相手を尊重し、自由にするのは、愛の現れ方のひとつです。
ユダに対するイエスの態度が無関心や放置とは違うことは、
イエスがユダに「(おそらくブドウ酒に)浸したパンきれ」を与えたことからも分かります。
それはまるで、「世界で最初の聖餐式」のようにも見えます。
ユダにとって、「浸したパンきれ」は「別れのしるし」になってしまいました。
しかし主が私たちに期待しておられるのは、私たちが「浸したパン切れ」を受け取ることにより、
主と私の関係が確かなものとなることです。

【問い】
①「当時は分からなかったけれど、後になって気づいた神の恵みや愛」はありますか?
②主イエスは私たちひとりひとりに「浸したパンきれ」を与えて下さっています。
主がどのようなものを「浸したパンきれ」として用いておられるか、考えてみましょう。
(具体的な人の存在や行動、言葉、自然を含む様々なものなど)

【祈り】
私を愛し、関わってくださる主を感謝します。
主がどのようにして私に、またこの世界に関わってくださっているのか分かりにくい時に、
主への信頼と希望が確かなものとなりますように。




3月29日(金・十字架当日)
【マタイの福音書 27章45~46節, 50節】
十二時から午後三時まで闇が全地をおおった。三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」
これは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
…イエスは再び大声で叫んで霊を渡された。

【解説】
主イエスは私たちの罪を負ったために、父なる神から完全に切り離され、
父なる神の姿を見ることも、その声を聞くこともできなくなっていました。
自分が世に来た理由や、苦しみの意味も分からなくなっていました。
主イエスは闇の中、大声で叫びます。

私たちにも、闇の中で叫ばざるを得ないような時があることでしょう。
しかしその叫びは主イエスが経験したものであり、闇の中にあっても、主は私たちと共にいてくださいます。

【問い】
あなたにはいま、どんな叫びがありますか。どんな問いがありますか。

【祈り】
私たちのための、主の十字架を感謝します。
闇の中にあっても主が共にいて下さることと、その叫びを主は知ってくださることを、忘れることがありませんように。

(補足)
「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」とは、詩篇22篇1節の御言葉です。
苦しみの中にあっても主は御言葉を用いていたことや、むしろ、御言葉は主ご自身そのものであることが分かります。




3月30日(土・主イエスの体は墓の中に)

【ヨハネの福音書 19章】
(主イエスが十字架にかけられ、墓に葬られる個所です。
自分の聖書を開き、黙想しつつ、祈りつつ、ゆっくりと読んでみてください。)



3月31日(日・復活の朝)
【マタイの福音書 28章1~6節, 8~10節】
さて、安息日が終わって週の初めの日の明け方、マグダラのマリアともう一人のマリアが墓を見に行った。
すると見よ、大きな地震が起こった。主の使いが天から降りて来て石をわきに転がし、その上に座ったからである。
その姿は稲妻のようで、衣は雪のように白かった。御使いは女たちに言った。
「あなたがたは、恐れることはありません。十字架につけられたイエスを捜しているのは分かっています。
ここにはおられません。前から言っておられたとおり、よみがえられたのです。」
彼女たちは恐ろしくはあったが大いに喜んで、急いで墓から立ち去り、弟子たちに知らせようと走って行った。
すると見よ、イエスが「おはよう」と言って彼女たちの前に現れた。
彼女たちは近寄ってその足を抱き、イエスを拝した。
イエスは言われた。
「恐れることはありません。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。
そこでわたしに会えます。」


【解説】
「おはよう」とは、ごく普通の、誰でも使う日常的な挨拶ですが、
この朝のマリアたちにとっては、新しい始まりを知らせる特別なものとして響いたことでしょう。
主は、私たちの身の回りに既にある様々な「言葉」を用いて私たちに語りかけ、ご自身の姿を現わされます。

【問い】
復活の主に最初に出会い、その言葉を聞いたのは、主の姿を求めて墓に行った女性たちでした。
主の姿を求めて行くとは、私にとってどのようなことでしょう?

【祈り】
復活の主を感謝します。
この朝に、そしてこれからも朝ごとに、私たちの耳が開かれ、
主から私への「おはよう」の言葉を聞くことができますように。
 
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